土地
2026年 03月 07日
乗りつぶしという趣味をしていなければ、おそらく一生訪れることはなかっただろうという土地、一生目にすることはなかったであろう風景がたくさんある。もしかすると、この先の人生で何らかの縁があって再訪したり、ともすればその地に住んだりする可能性もゼロではないのだろうが、そんな土地は多くはないはずで、今まで訪れた場所のうちのそれなりの数は、その日が人生唯一の訪問だったのではないかとすら思う。
いつの頃からだろうか、初めて訪れる街で、例えば乗り換え時間など多少時間があれば街を散歩するようになった。恐らくは趣味のライブ鑑賞で遠征をするようになったあたり、せめて観光かそれに近いことをしようと思い始めたあたりからだろうか。多くの場合、散歩に割くことができるのはせいぜい10分か20分くらいで、駅前のロータリーと大通りを多少歩いて終わることが多くて、それだけでその街の解像度が上がったなんて到底言えるレベルではないはずなのだが、少しだけ垣間見えたその街の景色、唯一無二の宝物を手に入れたような気がして嬉しくなるのである。
つい先日のこと、乗り潰しでとある温泉街を訪れた。時刻は21時台で、温泉街からすればもう地方深夜に等しい。傍から見れば不審者に違いないのだが、折り返しの30分を使って、すでに人通りもなくてお店も閉じている温泉街を歩く。マスクを少しずらすと独特の重さがあるような温泉の匂いがして、静かで冷たい風が顔を横切っていく。車が一台だけ通っていった細い道を歩いて行くと、1軒だけ明かりのついたラーメン屋がある。横を通りがかると、かすかにテレビ番組の声がした。この街で聴こえてきた、スピーカーと扉越しのその声が、何ともいえない温かさになって心に広がった気がした。
そう、そういう宝物である。こういう微かな記憶は、いずれどの街の記憶なのか分からなくなって、終いには薄れてなくなっていくのだろう。仮にその場所を訪れたのがこの人生で一度きりだとしたら、それはとても切ない気がして、この記憶をどこかに、文章や写真だけではなくてこのまま保存したいなと思ってしまう。
by Agotetsu
| 2026-03-07 23:42
| 随筆っぽいもの

